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Channel: 凡人のたわごと
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思想について Ⅰ

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科学というのは、対象を客観的にみて法則を見出すものですが、
社会科学などは人間の希望や欲望に左右されて、
「こうあるべき」という気持ちが科学に侵入してきます。

そうなると、客観的な事実に基づく法則ではなくなってしまう。
それでは、もう科学ではなく思想(哲学)になってしまいます。

「思想」は人生や社会についての一つのまとまった考え・意見とありますが、
例えばマルクスの思想は「こうあるべき」を超えて「こうあるはずだ」と、
そうでない思想と争う形になって、時には戦争にまで発展します。

社会科学も事実を観察することに重点を置いた科学にもどって、
客観的に研究する姿勢が必要と思います。

なかなか自分の気持ちを抑えるのは難しいですが、
どうすれば、科学的であり得るか。その方法の検討が必要です。
厳密に科学であることを目指すべきではないかと思います。

Melina Mercouri & Vangelis

相対的に見る Ⅲ(改訂版)

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物理学はというより物理学が対象とする世界も、
相対的であることを示す例をあげてみましょう。
量子力学で「真空」という概念がありますが、
この真空の世界では、物質が出現したり消滅したりするそうです。

出現するのは、現在の我々の住んでいる世界と同じ物質と、
もう一つ、我々の世界とは電荷が全く逆(つまり電子はプラスの電荷を持ち、
陽子はマイナスの電荷を持つ)の物質すなわち反物質です。
そして物質と反物質が衝突すると、物質は消滅してしまうのだそうです。

つまり物質と反物質が対で出現するのです。
私は詳しいことは分りませんが、
反物質でできた世界がブラックホールに存在していて、
物質を吸い込んでいるというようなことを、どこか読んだ記憶があります。


もう一つ物理学の相対的である例を挙げておきます。
その名も「相対性理論」です。

日常私たちが経験している世界は、
ほぼニュートン力学で説明ができる絶対的世界です。
しかし、アインシュタインの特殊相対性理論の世界は、
その名の通り相対的世界なのです。

何が相対的(絶対的)なのかというと、時間と空間です。
特殊相対性理論では比較するもので時間や空間が
伸びたり縮んだりするのです。

ニュートン力学では、時間や空間は一定で絶対的なのです。
正確には、ニュートン力学と言えども相対性理論は影響しますが、
現実の私たちの生活ではそれを無視しているだけです。

物理学の対象としている世界も相対的存在なのです。


相対的に見るⅣ↓につづく、

相対的に見る Ⅱ(改訂版)

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この世界に存在するものはすべて、
他のものと区別されることで存在しています。
そのことを理解するのに最もよい例が、
比較するものがない状態を考えてみることです。

例えば、この世界がすべて赤い色で出来ていたとすればどうでしょう。
「赤い」ということは認識できるでしょうか。
「これは赤い」ということに意味があるのでしょうか。
おそらく赤い色は認識できないし
「赤い」という言葉も意味をなさないでしょう。

こういう言い方をすると
「赤い色は存在しない」と言っているように
受けとる人があります。しかし、そうではなく、
比較するものが無かったらという仮定のもとで
存在しないと言っているもので、
現実には比較するものがあるので赤い色は存在しています。

この例の色については比較的わかりやいですが、
例えば、真っ白な大きな壁があり、
その前を蝶が飛んでいたとします。
蝶は一匹(一頭)だけで、比較するものはありません。
それでもその蝶は一匹でも認識できます。

もし、蝶が真っ白だったら視覚的には見えないかもしれませんが、
手で触って触覚的には認識できますし、
何か模様や色があれば、後ろの壁と相対的に認識できます。

また、同じ色であっても輪郭があれば区別はできます。
このようにこの世界はすべて相対的に存在しています。
比較するものがあって初めて存在するのです。



相対的に見る窟につづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66467586.html

なぜ「物自体」は世界に入らないか

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この世界は「一つで全体」で
すべてのものが含まれています。
だから、何も付け加えることはできないし、
できるのは分けることだけです、と言ってきました。

しかし、一方で「新しいもの」が見つかったときは、
その時点で追加すればいい、とも言っています。

何か矛盾しているように聞こえますが、
詳しく説明したいと思います。

生まれたときから世界は与えられている、と言いましたが、
生まれたとき感覚器官で確認できる範囲は限られています。
成人してからでも、
世界の隅々まで確認できているわけではありません。

宇宙の果てまで確認した人はまだ誰もいませんし、
この地球上だって分からないことは沢山あります。
確認はできていなくてもそれでいいのです。
「新しい発見」は追加できますから。

それは付け加えることができない理由で分かります。
よく哲学で出てくる「物自体」ですが、
その物はすでに感覚器官で確認済みの物で、
さらに「物自体」としてこの世界に
再登場させることはできないということなのです。

それは「新しいもの」でも何でもないのです。
すでにあるもので十分世界が説明できるのであれば、
もう一度その物を登場させる理由が見当たりません。

そういう特殊性を考慮した上で、この世界に物自体を据えるなら、
どういう位置づけが可能なのでしょうか。
そしてその結果、何が表現できるようになったのでしょうか。

時間について Ⅴ

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あるブログに「時間」についての面白い記述かありました。
その記述というのは、ある書籍からの引用で次のものです。

「時間は、過去から未来へと流れていくのではなく、
未来から現在を経て過去へ流れていく」
解説 「走行する車の前には「未来が見えている」、
   その未来がやがて「現在になり」、
   そして「過去という記憶」になっていく。
   こう考えてみると、時間は、未来から現在、過去へと流れていく」 


この時間についての二つの考え方について、
私なりに解釈してみました。

前段の「過去から未来へと流れていく」時間は
視点が第三者にあり、
実際に時間を感じている自分にはありません。

後段の「未来から現在を経て過去へ流れていく」時間は
正に時間を見る視点は自分あります。

前段は、誰かが時間の流れ乗りながら進んでゆく様を
側面から見ている第三者の目に見えた「時間」です。
第三者が側面から、時間に乗って流れてゆく人を見ているときの
第三者から見た「時間」の表現です。

後段は、時間の流れに乗っている自分自身に見えている
「時間」の流れなのです。
時間を感じて時間について考えている本人の表現です。




「時間」も見る視点によって
表現が変わってくるものですね。

アリア

現実を見て確認する

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学問をする上で一番大切なことは
誰れそれがどう言ってるかではなく、
現実はどうなっているかです。
これは冒頭のトップページで述べたことです。

ある事について色んな人がいろいろ仰ってます。
それらをまとめていい結論が出てくればいいのですが、
なかなか難しいですね。

しかし一方で私は、過去の賢人が残した遺産を
引き継ぐのも大切なことと思っています。
となると遺産は先に否定された「 誰れそれがどう言ってる」ことではないのか
と言われそうですが、それはその通りです。

確かに遺産は、直接自分が確認したものでないことは確かです。
だから最終的には自分で確認できれば一番いいのですが、
いつでもそんなことができるとは限りません。
例えば物理学の様々な理論などがそうです。

多くの科学の理論や、自分が行けない外国の事など、
誰かに教えてもらったり、映像で確認したりします。
そしてそれを信じているのです。

それらには信じるか信じないかという問題があります。
大学の先生が言ってたことは信じる。
自分が信用している人が言ってたことは信じる。
テレビが言ってたことは・・・・・信じときます。

もう一つ信じるか信じないかの基準として、
論理的な整合性があります。
誰が言ったことでも、どこで知ったことでも、
論理的に矛盾がなく、事実に基づく発言であれば信じられます。

それからこれまでの実績などから判断することもあります。
例えば、科学でも栄養学などは、
これまで栄養がないと言われていたものが、
後で、実は栄養があるとなったり、
発がん性がないとされていたものが発がん性があったり、
くるくる言う事が変わったりすると信用できなくなります。

いろいろの考え方があっても、
検証されて残るものと捨てられるものがあり、
諸説が整理されるようになっておればいいのですが、
検証する手段をもたないものはいつまでも残ります。

そんなときは、現実に照らし合わせて
判断するという方法が有効と思います。

バッハ ブランデンブルク協奏曲第六番

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バッハ ブランデンブルク協奏曲第六番

なぜ世界は分けることしかできないのか

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生まれたときから誰にでもあるこの世界、
この世界が何か。どういう仕組みになっているか。
それを分析するのに、どういう方法が与えられているでしょうか。

例えば「自動車」、その仕組みを知るためには、
まず、自動車を分解します。
同じように、この世界も分けて分解するのが、
この世界を知る近道です。

私たちは言葉を使って世界を表現していますが、
それは言葉(単語)で世界を切り取り、表現しているのです。
つまり、単語に分解しているのです。
だから言葉を使うということが世界からそれを分けることなのです。

自動車の仕組みを知るためには、
分解したものを再度組み立てて自動車を動かしてみます。
この世界についても同じで、分解したものを組み立てて、
それを動かしてみて「世界」を知るのです。

私たちは世界をこのようにして把握しており、
いつも、新しいことでも、この世界から相対的に分けて取り、
名前を付け使っています。
新しいものでもこの世界の何かと相対的にあるのです。


Judy Collins"「悲しみのクラウン」

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"Send In The Clowns"「悲しみのクラウン」(Judy Collins)

オリジナルは、トニー賞受賞ミュージカル"A Little Night Music"のために書かれた曲。
主人公のすれ違う恋愛を嘆く歌です。
シナトラやバーブラなど数多くの歌手にカバーされていますが、
彼女のバージョンが、唯一Billboard Hot 100にチャートインしています。
1975年のアルバム"Judith"からのシングルカットでBillboard最高位36位を記録。
その後グラミー賞最優秀歌曲受賞したため、再発されチャートインしました。
1977年Bilboard最高位19位。

事的世界観

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廣松渉の言う「事的世界観」とは、
「"もの"に対する"こと"の基底性」、
「"実体"に対する" 関係"の第一次性」を基本に置く思想のようです。

世界は諸々のもの物から成り立っているとするのが物的世界観、
常識においても伝統的な学問においても主流なしてきたこの観方によれば、
森羅万象は「もの」ないし「ものの複合」とみなされる。

これに対して、事(事件という意味ではなく、事態つまり「斯々である」こと、
「何々がある」こと、「然々する」こと、等々の「こと」)は、
「もの」ではなく「ものの複合」にも還元できないという観方が登場する。
廣松渉 「現代思想を読む辞典」より。

個体に焦点を当てて表現する場合(物的世界観)と、
出来事に全体として捉えて表現する場合(事的世界観)とに区別、
池上嘉彦 「<する>と<なる>の言語学」より


物的世界観との対立概念として
事的世界観という言葉が使われていますが、
必ずしも対立概念ではないと思います。

ここでは「世界観」という言葉が使われていますが、
世界を捉える場合のとっかかり、つまり出発点だと思います。
私は結果的にはこの「事的世界観」の立場で、
「世界の構造」↓として「世界観」を築きました。

この「世界の構造」を回転させると、
世界はもっとダイナミックに動いていることが分かります。

弁証法(思想についてⅢ)

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花は、いつまでもその美しい姿を保ち続けることはできず、
必ず枯れてしまいます。
この「枯れる」という現象を言い換えてみれば、
「美しい花(正)」「美しい花でないもの(反)」
という否定形の状態になるということ。
このように、ヘーゲルは「一つの事物・命題には
必ずそれ自身の否定が含まれる」ということを指摘したのです。
しかし、枯れた花は実を残します。
「花はいつか枯れる」という否定のプロセス、
つまり、「美しい花」は「美しい花ではないもの」でもありうる、
という事物に内在する対立が、
「実(合)」として次世代に残されるわけです。
「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」の対立関係から、
より高次の「合(ジンテーゼ)」が導かれる。
(以上、P+D MAGAZINEよりお借りしました。)

これは、「美しい花が枯れて実を残す」という現象を例に、
弁証法の説明をされているのですが、
「美しい花が枯れて実を残す」、と伝えるためだけに
これほどの理屈が必要なのでしょうか。

しかも、その理屈と言うのが偏った価値観に基づくもので、
「枯れる」という現象を「否定」として捉えています。
「枯れる」という現象は必ずしも否定されるものではないのです。

「否定」のほかに「対立」とか「矛盾」というような
ネガティブな言葉が使われますが、
現実は時間が経過するとともに変化するものです。

「変化」というどういう状況にも適応する言葉があるのに、
わざわざその言葉(否定や矛盾)の本来の意味を捻じ曲げて使うのは、
現実の社会に混乱をもたらすのみだと思います。

変化を「変化」と表現しておけば、
また、その他用語も一般用語を使って哲学すれば、
弁証法などという難しい理論を使う必要はないと思います。

ヘーゲルがどう言っているかは私は分かりませんが、
マルクスなどは資本家と労働者の関係の改善が目的で
弁証法を適用したのだと思います。

資本家と労働者の関係の改善という魅力的な事柄に引かれて、
弁証法への支持者が多いのだと思いますが、
その目的を果たすためならもっと適した理論があり得ると思います。

現象学(思想についてⅣ)

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フッサールの現象学を分かり易く解説したものとして、
「山竹伸二の心理学サイト」よりお借りしてきたものです。

赤く、まるいリンゴがある。触るとツルツルとしており、
かじってみると甘酸っぱい味がする。
このとき、私はこのリンゴの実在性を微塵も疑いはしないのだが、
実はこうした感覚はリンゴの実在性を何も証明してはいない。
そのリンゴが夢や幻想ではないという保証はどこにもないからだ。
では、なぜ「リンゴがある」ことを信じて疑わないのか、
その理由を考えるために、
取り敢えず「リンゴがある」という思い込みを
ちょっと脇へ置いておく(エポケーする)。
この時、目の前に見えているリンゴも、その周囲の様々な物も、
全ては意識における現象ということになる。


古典的哲学でその実在性を「物自体」などとしたり、
また、自然的態度では無反省に確信されている内界・外界の実在性などを
脇に置いてエボケーとしていながら、
さらに意識における現象そのものの「本質」に至ろうとするのです。
私からすれば、これでは「物自体」と大差がないように思えます。

私は世界は分けることしかできず、
その位置づけは分けた相手と相対的に
フッサールの現象学を分かり易く解説したものとして、
「山竹伸二の心理学サイト」よりお借りしてきたものです。

赤く、まるいリンゴがある。触るとツルツルとしており、
かじってみると甘酸っぱい味がする。
このとき、私はこのリンゴの実在性を微塵も疑いはしないのだが、
実はこうした感覚はリンゴの実在性を何も証明してはいない。
そのリンゴが夢や幻想ではないという保証はどこにもないからだ。
では、なぜ「リンゴがある」ことを信じて疑わないのか、
その理由を考えるために、
取り敢えず「リンゴがある」という思い込みを
ちょっと脇へ置いておく(エポケーする)。
この時、目の前に見えているリンゴも、その周囲の様々な物も、
全ては意識における現象ということになる。


古典的哲学でその実在性を「物自体」などとして、また、
自然的態度では無反省に確信されている
内界・外界の実在性をエボケーしながら、
さらに意識における現象そのものの「本質」に至ろうとするのです。
私からすれば、これでは「物自体」と大差がないように思えます。

私は世界は分けることしかできず、
分けたものはその相手と相対的に位置づけされるしています。
その分けられたものには優劣はないし、
その分けられたものを部品として世界を構築(組み立て)しました。
それが「世界の構造」↓です。
世界は個々のものに焦点をあてるのではなく、
その組み立てられた世界を動かして理解するものだと思います。

大切な人とは

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大切な人とは...
うまくいっているときは、周りに人がたくさん集まる。 
だが、一番大切なのは、
どん底のとき、誰がそばにいてくれたかや。
- 野村克也 -

「経験者は語る」という言葉が頭に浮かんできました。
誰でも同じようなことは思いますが、
実際に経験すると、その理解度は違うものです。

人のつながり方というのはいろいろありますが、
こういう時に見えてくる人の心はコワイですね。


人の心は見えませんので、
本当の事は分かりようがないのも事実ですがね。

「縁」 Ⅰ

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以前に、私の考え方はフッサール(現象学)に
似ていると言われたことがあります。
その時、私は「私の考えは仏教からの影響です」と答えました。
とは言っても、私のブログは「専門用語は使わない」と
宣言していますので、仏教用語も使ってきませんでした。

今日のこの記事のタイトルは仏教用語としての「縁」なのですが、
ときどき記事を読ませていただいてるハートリンクスさんのブログで、
真言宗・密蔵院住職、名取芳彦さんの言葉が紹介されていて、
そこで「縁」という言葉の正確な意味を知りました。
それで思ったのですが、私の「世界の構造」は
「縁の構造」と言い換えてもいいのではないかと思ったのです。

この際、私の考え方の基礎になっている
仏教の考え方について書いてみたいのです。
「縁」について真言宗・密蔵院住職、名取芳彦さんは
  「たとえば「縁が切れた」と言いますが、それは、
  「“「縁が切れた」という縁が加わった”ということなのです。」

この言葉が示すように「縁」というのは
この世界のあらゆる事柄を表しているものと思われます。
さらに名取芳彦さんは続けます。
  「仏教では、すべては空(くう)であるといいます。そのもの単体で存在
  するものはなく、すべては縁の集合体だと考えるのです。」
  「たとえば、この文章を読んでいる今も、膨大な縁が集合した結果です。
  本を買った、売っていた書店があった、出版した三笠書房があった、
  担当した編集者がいて、書いた坊主がいました。」
  「これらの縁は、起こったことばかり列記しました。ところが、仏教の縁の
  考え方の面白いのは、“起こらなかったこと”にまで及ぶところです。
  そのような無数の縁の結果、今があります。」

これは私が言う「世界の構造」↓そのものです。


「縁」Ⅱへつづく、

「空」 (「縁」 Ⅱ)

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「縁」Ⅰでは仏教の「縁」と私の「世界の構造」が同じだと
言ってしまいましたが、もう少し具体的に説明します。

真言宗・密蔵院住職、名取芳彦さんは
  「仏教では、すべては空(くう)であるといいます。
  そのもの単体で存在するものはなく、
  すべては縁の集合体だと考えるのです。」
と言っていますが、「そのもの単体で存在するものはない」と言う部分は
言い換えると「全ては縁でつながれて相対的に存在している」という事です。

私の哲学の基礎にも相対的存在↓がありますが、
それが仏教では「縁」という形でとらえられているのです。

また、「すべては空(くう)である」という部分は、
私がよく言う「世界は分けることしかできない」ことの
裏返しと同じ意味のようです。

ブリタニカ国際大百科事典によれば、
すべての存在は,直接原因,間接原因によって成立したもので,
存在にはその本質となるべきものがない。
これを仏教では「空」という。とあります。

つまり、「空」には本質も物自体もなく、
世界はその構成物に分けて理解するしかできないのです。

仏教では世界のつながりを「縁」の集合体とされますが、
しかし、その相対的に存在する事柄の「縁」を
構造体として捉えることで、世界を把握すると
もっと詳しく世界を理解できます。

私は試みの「世界の構造」↓を書いています。

未来は分からない方がよい

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未来がどうなるか分からないからこそ良いのです。
例えば、いつ死ぬか分かっていたらいやですね。
例えば、いつ事故でケガするか分かっていたら怖いですね。

未来は分からないからこそ夢が見れるのだと思います。
「知らぬが仏」と言いますが、それですね。

ニーチェ(思想Ⅴ)

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ニーチェは「思想家」という言葉が似合う人だと思う。
著作のほとんどは物語という形をとっていて、
論理的な展開はほとんどないのです。

ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」は、
主人公のツァラトゥストラが旅をしながら自らの思想を説く
というスタイルをとっています。
ツァラトゥストラは10年間、山にこもって知恵を蓄えました。
その成果を人々に伝えようと、山を下りていきます。

出会った人に「神が死んだ」ということを伝えたり、
「なんじ自身の価値と共に生きよ」と説いたり、
「人生は何度でも繰り返すに値する」と説いたり、
「この世には神も、物自体も存在しない」と自説を振り撒きます。

しかし、これらの多くはニーチェの価値観に過ぎず、
その価値観に誰もが賛成とは限りません。
たとえば「神は死んだ」とは思っているのは
同時のキリスト教中心の価値観に反感を持っていた人たちで、
従来からのキリスト教中心の価値観を守っている人も沢山いたはずです。

私はニーチェの名言には引かれるものがありますが、
例えば「軽蔑すべき者を敵として選ぶな。
     汝の敵について誇りを感じなければならない。」
という言葉など、私は好きです。これなどは多くの反対意見もあるはずです。
キリスト教を批判的に見ているニーチェにしては、
「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉を連想する言葉で、矛盾は感じます。
「物語」というのはこれもありなんですね。

また、ツァラトゥストラは次のように語ります。
「見てください。あまりにもたくさんの蜜を集めた蜜蜂のように、
この私もまた、蓄えた知恵がわずらわしくなってきました。
今は知恵を求めて差し伸べられる手が私には必要となってきたのです。
私は分配し、送りたい。」

Northern lights - Renaissance

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