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ブログの世界

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ブログというコミュニティは、自分をさらけ出す人もあれば、
全く架空の人物になり切って、その人物を演じる人もあります。
上の二つのタイプの人は少ないでしょうが、
たいていは、自分ではないところがあったり、
一部を隠している人があったり、それが大部分と思います。

女性なら年齢は隠す人が多いでしょうし、
男女を問わず血液型は隠す人が多いようですね。
性別も隠す人がありますし、隠すだけでなく偽る人もあったりします。

住んでいるところや、職業も明らかにせず、
自分の過去も明かす必要はないのです。
それでもブログは普通にできますし、違反でもないのです。

考えようによってはフィクションの世界ですね。
完全なフィクションからほとんどノンフィクションの世界まで、
いろいろの物語があっていいのではないかと思います。



最近、ブログ開設以来交流があったブロガーさんが、
ブログを止めると宣言して、これまで毎日更新されていた記事も
その後は更新されていません。

止めるにあたり「これまで嘘をついてきた」とお詫びの文章がありましたが、
これは全く必要はないものです。もともとフィクションなんですから。
黙って去って行く方が、ファンには親切だと思いますよ。
「お詫び」を入れられると返って余計なことを考えてしまいます。

幸いブログですから心だけが通じていたらいいのですよ。
これからもブログを続けていたら、普通に心は通わせます。
「騙している」のではない。「演じている」のですよ。

踊ろうぜ、一緒に (Shake It)

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家まで送ってくよ、僕を置いて行くつもりがないならね
体は冷えてしまっただろ、でもすぐに温かくなるさ
僕はどうやって君の心に入り込むか考えている
今夜恋に落ちるんだ(送らせてくれよ)
この気持ちが僕をかき立てるんだ(さあ行こう)

(歌詞はブログよりお借りしてきました)

メトロ・ステーション(Metro Station)とは、
アメリカ合衆国カリフォルニア州,ロサンゼルスにて結成されたポップ・パンクバンドである。
2008年発表の楽曲「"Shake It"」の大ヒットで一躍人気バンドへ。

ウィキペディアより

出発点 Ⅱ

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下の文章は西田幾多郎のものです。

「自己の内なる根源へ向かうことで、もはや、
人生の悲痛や苦悩や楽しみに一喜一憂している自己や
自我などというものを消し去ってしまおうとしたのです。
その先に見出したのが『無』としか呼びようのないものだった。」

西田が「無」にたどり着くこの文章を読んで、
西田の「無」というものがどんなものか読み取れましたでしょうか。

娘の死を納得などできないその気持ちから、
「どうして、なぜ」と思わざるを得なかった。というのが、
この「無」に至る開設者の理由付けになっていますが、
「悲痛や苦悩や楽しみ」を消し去りたいという理由にはなっても、
哲学の基礎とした「無」を据えるまでの理由にはならないでしょう。

人間に与えられている能力・出発点が「娘の死」というのは
個人的な人生観をみる気はしますが、
世界観を組み立てる土台とするにはどうかと思えます。

西田幾多郎のこうした文章を読んだとき、
私はそれ以上読もうという気にはなりません。
これは西田幾多郎の書物にかぎらず、誰のものでも同じです。

西田の考えは「こうこうだ」という話は聞きますが、
それが現実世界のどの部分をどう位置付けているのか、
そういう視点で、述べられている書評はあまり見かけません。

残念なことですが、それが哲学の現実です。



つづく、

時間(出発点Ⅲ)

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過去の記事を読み返していたら、
「時間について」という記事にこんなコメントを頂いてました。

いつでも「現在」なのだから過去や未来は実体としては存在しない、
という哲学的立場がある一方で、
科学では「時間と空間は一体」とか
「時間の矢は不可逆的なエントロピー増大によって定義される」とか、
“時間”の存在を自明のものとして語ります。
どちらかが間違っているのか、どちらも整合的に噛み合うのか、
それとも全く別々のことについて語っているのか、

要するに哲学的な「時間」と科学的な「時間」は
別のものなのか同じものなのかという質問でした。

最初に挙げられている「時間と空間は一体」というのは、
空間は三次元で上下左右前後、あらゆる方向にあり、
距離として「ここにある」だけではないが、
それと時間を同列に扱う違和感が物理学では感じられない。
という疑問なのでしょう。


時間と 空間をひとつにまとめて扱うアイデアの元は、
「速さx時間=距離」の公式だったようです。
やはり人間の「こうだったらどうなるか」という
未来に対する疑問があったのだと思います。

つまり、物理学の「出発点」もやはり
物理学者の心の中の未来にあったのです。
「速さx時間=距離」という公式が示すように、
すでに、「距離」という言葉に短い未来が含まれているのです。

物理学と言えども、自然そのままではなく、
物理学者がどういう疑問を持つか、
その心がプラスされて成り立っているのです。

花粉症に劇的に効く薬のその後

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先に花粉症に劇的に効く薬として
エドキサバンという薬を紹介しましたが、
その後の経過について報告します。

花粉症もスギ花粉からヒノキ花粉に変わって
家内の花粉症も少し症状が出てきました。
家内の話では「それでも症状は極軽いもの」とのことで、
やはり、薬の効果は間違いないようです。

今年はヒノキの花粉の飛散がひどくて
去年は症状がでなかったのですが、
今年は少し鼻水の症状が出ています。

それでも表へ出た時など、限られたときだけで、
室内に入ってしばらくすると症状は消えてます。


以上ご報告まで、

1973

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1973 - James Blunt

時は過ぎてしまったけど
僕はいつもきみといる
あの1973年のクラブに
"Here we go again"を歌いながら

シモーナ
冷静でいたいって思うんだ
そしたらはっきりとわかるだろう
雨はもう上がったってことが

(歌詞の一部です。ブログからお借りしました)

物理学の時間

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過ぎ去った過去はすでにないし、
来るべき未来はまだありません。
あるのは只今現在のみなのです。

物理学では時間という概念は重要な位置にあり、
過去、現在、未来はあるものとして扱われています。

しかし、物理学は人間を離れては存在しないとも言われます。
自然を観察し法則を発見し記述するのは人間です。
その人間が自然を見るとき、そして解釈するとき、
「どうなったらどうなるか」つまり因果律という法則性を求めようとします。

只今現在を見るだけでは満足せず、
それが未来にどうなるかを関連付けて考えます。
つまり、「未来」という届く先は考えられてあるのです。
時間は人間が考えた「未来」の中にあるのです。

時間は自然の中にあるのではなく、
自然を観察し法則を発見しようとする人間の心の中にあるのです。

私たちは過去について懐かしく語り、
未来について夢見て語ります。
時間はその夢の中にあるのです。
物理学の時間も例外ではないのです。

出発点 Ⅳ

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あるブログでこんな話が出ていました。


「ある禅寺の座禅に参加した時のことです。
和尚さんから尋ねられました。
  和尚 「ここに来た目的は何ですか」
  私  「心を磨きに来ました」

私は、模範解答というつもりで、自信満々に答えました。
「それは良いことだ」と、褒めてもらえると思っていたのです。
ところが和尚さんはこうおっしゃいました。

  和尚 「心は磨けません。目に見えませんから。
      まず、目に見える物をしっかりと磨きなさい」
と言われた。」


こんな内容の記事でした。

一方で哲学者は「疑い得ぬ事を語る」と言います。
哲学者がまずすることは、心で「疑い得ぬ事」は何かを考えます。
現実に目に見える物を見ようとはしないのです。

多くの哲学者の出発点は自分の心なんです。
自分に与えられている感覚器官は二の次なんですね。
自分に与えられているものがすべてなんです。
それを超えることはできません。

現実の見えている物をしっかり磨きましょう。
そして、語り得るものを語りましょう。
そこが出発点です。

You're Gonna Miss This - Trace Adkins

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You're Gonna Miss This - Trace Adkins

CDのカスタマーレビューより

グレイテストヒッツ盤に収録された新曲

「You're Gonna Miss This」がナンバーワン、


トレイス最大のヒットになり、なんと2009年

 第44回ACMアワードでシングル・レコードオブザイヤーに輝きました。


人生観と世界観の違い Ⅱ

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以前に「人生観と世界観の違い」という記事を書いていますが、
そこでは世界観はすべての人に通じるもので
人生観は個個人で異なるものであるという
その違いを基本に書いています。

その考えの基礎には「世界」と「人生」という言葉の解釈があります。
「世界」は「生きる場所」で「人生」はそこでの「生き方」なのです。
「生きる場所」はすべての人に共通であるべきだし、
「生き方」はそれぞれの個性で異なるはずです。
ここで生きる場所というのは必ずしも空間的なものではなく、
生活の場であったり、働く場であったりします。


ここでもう一つ世界観と人生観の違いで
大切なことを付け加えたいと思います。
それは判断の種類の違いです。
世界観は事実判断で、人生観は価値判断だという違いです。

世界観は事実判断をもとに築きます。
したがって、人によって異なることはありません。
人によって異なっては共通の世界にはなりません。

人生観は人それぞれの好みで選びます。
似かよった好みの人はありますが、
集団でグループを作る必要はありません。


哲学は世界観や人生観を築くものと言われますが、
私の世界観と人生観の意味づけからすると、
人生観というのは哲学には入れたくないものですね。

だいたい価値観というのは
「絶対」ではあり得ないものだと思います。

出発点 Ⅳ(改訂版)

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哲学を含む学問は間違いない結果を誰も求めます。
よく例に出るデカルトの「われ思う~」は
間違いないと思ったものを出発点にしたわけですが、
私が言う「出発点」もデカルトのそれと同じです。

私は感覚器官から受け取る外界の情報を抜きにして
自分(心)はあり得ないと思っています。

ヘレンケラーは視覚と聴覚を持ってなかったのですが、
触覚はあったようで、味覚も内臓感覚もあったようです。
もし、残っている触覚・味覚・内臓感覚もなかったら、
その人の存在は本人は感じることはできたでしょうか。

もし、心で考えることを出発点にしたとしても、
感覚器官で感じるときのことも頭の隅にはあって
それも含めた世界を考えていると思います。

私が感覚器官で得られる情報を出発点にすると言ったとしても、
それを考えているのは自分の心ですから、
これとて完全に分離することはできないのです。

私は世界は一つだと思っています。
感覚器官で感じる世界とそれを思っている心は一体で
一つだと思っています。

だからまずはこの一つの世界を自分と
外の世界を分けることから始ます。

世界の構造 Ⅰ(改訂版)

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ある日突然、体の内側から見ている人間は
自分だけであることに気づきます。
そして世界の中心は自分にあることにも気づきます。
これは私の空想ではなく体感したものであるし、
どなたも一生のうちには一度や二度は体験することと思います。
そしてこの世界で生きていることに「なぜ」と疑問を抱くのです。
これが独我論の世界です。

自分はこの世界で一人であり、
その取り巻きも含めて、一つの世界として与えられています。
私はずーっとこの世界は「一つで全体である」と思ってきました。
「一つで全体」ですので、その世界にはすべてのものが含まれています。
だから、何も付け加えることはできないし、
できるのは分けることだけだと思っています。

一つの世界を分けて行き、それを目的に従って
再度組み立てたものが後に構築する「世界の構造」です。
これは自分を中心にした世界の構造で、
この方法だと捨てるものがなく世界のすべてが表現できて
全体を関係付けできるのです。

哲学の存在論や認識論では認識主体と認識客体の二つに分けて
二項対立図式で考えることが多いですが、
二つに分けるまではいいとしても、客体はそれ自体で存在するとかしないとか
そんな議論を始めるのです。

そうではないのです。「世界は一つで全体である」と言うことは、
そして「できるのは分けることだけ」とも言うことは、
分けられたものとしてはあっても、それ自体としては存在する必要はないのです。
それを考え始めるともう一つ同じものを付け加えなければならなくなるからです。

この世界に含めてないものが見つかったときは、
その時点で追加すればいいのです。
それからその分け方も人によって、目的によって異なってもいいのです。
どれが正しいと言うのではなく、
どれが一番世界を単純に説明できるかです。

日常生活に紛れていると、自分を他人と同じように並べて置いて
「独我論なんて特殊な考え方」というくらいに考えています。
自分の「心」だけが確かな存在というのは問題がありますが、
体の内側から見ている人間は自分だけというのは空想ではなく現実なんです。


世界の構造Ⅱへつづく、

世界の構造 Ⅱ(改訂版)

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まず、一つで全体の世界を分けることから始めます。
なぜ「世界」を分けるのか。
それはこの「世界」を分解してその構造を知るためです。

分けてさらにそれを組み立てて
その間にある関係を知るというのも
この「世界」をよりよく知るために必要なことです。

最初に世界を「自分」と「それ以外のもの」に分けます。
ここで言う「自分」は私にとっては私自身ですが、
あなたにとってはあなた自身なのです。

体の内側から見ている人間は自分だけで、自分は特別な存在なのです。
これは「人間」と「それ以外」を分けるのとは違う
ということは分かっていただいてますでしょうか。

分けた二つの内「自分」をさらに分けます。

自分には五感と総称されている感覚器官があります。
それから手や足やその他行動器官があります。
脳はいろいろの機能が一緒になっているので、
その中から記憶機能と演算機能を取り出して分けます。
そして生命を維持するための機能・器官もあり、それも分けます。

以上、五つの機能を「心」がマトメています。
「心」の働きには八つの判断がありますが、
これについてはさらに「心の構造」という記事を書いています。

少し具体的にそれぞれの機能の関係を書いてみますと
例えば、視覚(感覚器官)で美しい景色を見て、「心」で感動し、
また見に来る価値があると「心」で判断し、記憶機能に記憶しておきます。
そして、また記憶を思い出して演算機能などを使って
旅行の計画を立てます。

もちろん、旅行には行動器官を使って歩いたり、
旅館では美味しい食事をして体力を維持します。
このようにして、日常の生活が回って行きます。


世界の構造 Ⅲへつづく、

哲学の「時間」

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私はここで哲学者が「時間」についてどう言っているかを書くつもりはありません。
哲学者の発言の中にある隠れた「時間」についての観念を
分析してみたいのです。

自分が見ていなかったら対象のものは存在するのか、
こういう疑問が湧いてくるのは、その人にとっては「今」がすべてだからです。
そのものは「今」は見えてないからです。
そして「今」あるのは記憶という形で「過去」としてあるのです。

哲学者はこうした状況では「今」のその「対象」の状況に決着を付けたいのです。
しかし、現実は「記憶という形で現在の自分にある」ものです。
普通現実の対象は感覚器官で捉えられているものがすべてで、
その他のものは記憶としてあるか、写真やビデオなどの記録媒体としてあります。

その現実を認めるか認めないかなのですが、
無意識の一般人はそれを認めて受け入れています。
世界はそれで動いているのです。

哲学者はその現実を受け入れられず、過去の哲学は無駄な時間を過ごしてきました。
現実を受け入れなくて何ができるのでしょうか。
物自体として客体化しても何ができるというのでしょうか。
何が見えてくるのでしょうか。

哲学者は流れる現実の「時間」を止めて
過去も未来もすべて現在と同一線上に置いて、
鳥瞰して考えようとしているように思えます。
鳥瞰と言っても感覚器官でではなく心で鳥瞰するのです。

こんな方法で何が見えるのでしょうね。
私は過去は「過去」として記憶にあり、
未来は「未来」として希望の中にあると思います。
人間には時間に関しては記憶することと
未来に希望を描いて夢を見ることしか与えられていないのです。

哲学者のするような鳥瞰が必要な時は、ちょっと思い浮かびません。
記憶を思い出せばいいことしかないように思います。

柱時計の「時間」

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柱時計は人間の「時間」の象徴です。
現在は柱時計のある家は少なくなりましたが、
昭和のころはまだまだありました。

時計の種類は変わっても「時間」の象徴としての地位は
現在の時計にもあります。

時計は規則正しい運動をして、等間隔に時を刻んでいます。
そこが人間から頼りにされるところで、
「時間」と言えば柱時計なのです。

時計の針が一目盛動いて「時間が経った」と思う。
この「一目盛動く」=「時間が経った」が
「時計」=「時間」の考え方の始まりです。

人間が目盛が動いたと判断できるには、
その目盛の過去の記憶がなければなりません。
その過去の目盛の記憶と現在の目盛を比較すれば、
その差で時間が分かる仕掛けです。

どうしても、時間が分かるには記憶が必要なのです。
大きな柱時計、カチカチ時を刻む音、ボンボンと時を知らせる音、
しっかり記憶に残るように設計されています。

時間はやはり人間の記憶の中にあるのですね。

クオリア Ⅲ(訂正版)

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世界の構造には空想できる場所はありません、
といいましたが、人間はいろいろ空想するものです。
そしてそれを物語にして例えば映像化して楽しむこともあります。

空想を物語にして映像化する、これは芸術の世界ですね。
文学や音楽や美術も芸術です。
例えば、絵画ですが、ここに書かれているリンゴは何なのでしょうか。
「リンゴ」なのか「絵」なのか、
そんなことを議論する意味などありません。

芸術というのは価値観の世界で、検証という行為はなじみません。
芸術は好みの問題で、「私はこれが好き」と言われたら、
それを認めるしかないのです。

しかし、その映像を検証しても意味がありません。
古典的な哲学の多くも、ある部分それに等しいものです。
クオリアについてもそれらと同じものと思います。

古典的な哲学やクオリアを好みの問題とするなら、
議論するのは楽しいかもしれませんが、
クオリアなどは「あるかないか」という問題になると
好みでは片づけられないところもあります。

「クオリアなんて元々ないもの」という考え方がありますが、
ある意味ではそれも当たっていると言えます。




「クオリア検廣へつづく、
https://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/66074296.html

人は信じられるもの

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人の心は見えないので、信じるか信じないかという
厄介な問題が生じてきます。
しかし、凡人は信じています。

例えば、自分が誰か(他人)に
何かを作ってくれるように頼んだとします。
そして数日後に、その何かが出来上がって届けられたとします。

形も色も機能も自分が思っていた通りに出来上がっています。
それは自分が作ったものではありませんが、
自分の心が思っていたものです。

自分の心が思ったものを他人に頼んで作ってもらったのです。
自分と同じ心を持っていると信じて作ってもらったのです。
そう考えないと辻褄が合いません。

つまり、他人の心を直接確認はできませんが、
他人にも心があると「信じる」ことで
日常生活が成り立っています。

人の心は見えないから疑うか、
言葉が伝わり自分の目的を預けられるから信じるか
どちらを取るかです。

分けたものの位置づけ Ⅰ(改訂版)

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世界の構造では、分ける行為の理由付けはしましたが、
そのように分けた理由についてはほとんど書いてきませんでした。
それぞれの分けたもの同士の違いやその関係については書ています。

しかし、それだけでは分けた理由としては不十分ですし、
その後に記事にした各種「位置づけ」との関係も明確ではありません。
それらを補うために書き始めたのがこのシリーズです。

「分ける」と言っても、何を分けるのか、何で分けるのか、
どうして分けるのか、いろいろ分ける理由があります。

一つの世界を分けるとき、自分と外界に分けましたが、
この二つは「それ」と確認するための手段が異なります。
「自分」では「心」で確認しますが、「外界」では感覚器官で確認します。
それぞれ、他に確認できる手段がありません。

したがって、「物自体」というのは感覚器官では
確認できないため「外界」にはありません。
それでは「自分」には「物自体」が確認できる方法があるのかそれが問題です。

こういう考え方には「外界を確認できるのは感覚器官だけと限らない」
というご意見も出てくると思います。
そういう考えもあっていいとは思います。

それならどういう器官で「物自体」が確認できるのか、
そしてそれでどういう構造の世界を築くのか、
そして築かれた世界は現実の世界をうまく説明できるのか、
そこが問題になってくると思います。


分けたものの位置づけⅡへつづく、

ピアノ協奏曲第五番 バッハ

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バッハ:ピアノ協奏曲 第5番 ヘ短調 BWV1056 2. ラルゴ, アリオーソ

バッハのチェンバロ協奏曲のピアノ版です。
多少音が悪いですが、
映像が楽しめるのでこちらを取りました。

注、聴くのは中ほど(2分50秒)までにしてください。
それ以降は途切れ途切れで聴けません。

論より証拠

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最初に「間違いない」と思われるものを決めて、
そこから演繹的に世界を考える、というものに、
物理学では理論物理学というのがあります。

先のノーベル物理学賞は重力波の存在を証明した人に与えられました。
この重力波の存在はアインシュタインが理論的に予測していたもので、
(アインシュタインはこの重力波の理論ではノーベル賞は受賞してない)
その正しさが証明されたのですが、
それを検証する手段があったから証明ができたのです。

もし、アインシュタインが生きていたら
今回のノーベル物理学賞にアインシュタインの名前があったでしょう。
それだけ、現実の世界で証明されることが
物理学では必要なことなんです。


これは物理学に限ったことではありません。
よく「論より証拠」と言いますが、
その言葉が通用しないのが哲学です。
かつての哲学は今でもファンがおられて議論されていますが、
証拠がないため結論がでず、
最後は「どちらが好きか」の話になってしまいます。
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