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Channel: 凡人のたわごと
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心の構造 Ⅳ

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心の構造Ⅲで八つの心の種類を挙げましたが、
それらの代表的な用言を挙げますと、

1、事実判断としては「正しい」「間違い」「等しい」「異なる」などが
  あります。
2、価値判断としては「良い」「悪い」「好き」「嫌い」などがあります。
3、感情としては「おいしい」「まずい」「怖い」「悲しい」「寂しい」「苦しい」     「惜しむ」「怒る」「憎い」「喜ぶ」「楽しい」「驚く」「痛い」「暑い」「美しい」
  などがあります。
4、信疑としては「信ずる」「疑う」などの用言があります。
5、懸けは「困る」「悩む」「迷う」などいう心の状態から
  脱却しようとするときの一つの心のあり方で「賭ける」という
  用言があります。
6、欲望としては「欲しい」「望む」などの用言があります。
7、自我としては「誇る」「ぐれる」「恥じる」「照れる」などという
  用言があります。
8、祈りとしては「願う」「祈る」「念ずる」「崇める」などという
  用言があります。。

以上8つが心の主な働きです。
ここにあげた用言は心の状態を表すもので、
現実にそういう心の状態であっても、
心の状態をいちいち伝える必要がないときは、
ここにあげた用言でその心を表現されるとは限りません。

他に動作を表す動詞がたくさんありますが、
実はこれらの動詞が心の状態を表す言葉として
流用されることもあるのです。「言葉の流用」↓参照


心の構造Ⅴへつづく、

心の構造 Ⅵ

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もう一つ例を挙げてみましょう。
子供も独立して時間の余裕ができたので、
ある主婦がボランティアでもしようと思ったとします。
このボランティアをするという判断は、
できた時間の余裕を生かすため(価値判断)選んだのですが、
他にも、趣味の水彩画に打ち込むとか、
水彩画教室を開くとか、パートに出て働くとか、
いろいろの選択肢があったと思います。
その中からボランティアを選んだのです。

趣味の水彩画は楽しい(感情)が、
それを生かして水彩画教室を開けばお友達もできて、
それも楽しい(感情)。
パートに出ればお金が入ってくる(欲望・事実判断)。
しかし、彼女はボランティアを選んだのです。

それでは、なぜボランティアを選んだのか、その理由を考えてみると、
信頼する友人に勧められた(信疑)とか、夫に命令された(この場合は、
夫を信じているかいないかで判断の種類が異なります)とか、
社会に奉仕できる仕事で、誇りに出来る(自我)と思ったからとか、
いろいろの理由があると思います。


一つ行動を起こすにも、いくつもの判断が積み重なっており、
その判断も優先順位があるようです。
一番最初に事実判断があり、その事実を価値判断して行動するか、
さらに自分のプライドや欲望と照らし合わせることもあります。
最後には欲望や自我にたどり着くことが多いです。


この記事は以前に投稿したものに加筆・訂正しています。
心の構造Ⅶにつづく、

心の構造 Ⅶ

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心の構造Ⅵで
最後には欲望や自我にたどり着くことが多いと書きました。
もう少し詳しく書いておきます。

欲望は言葉の通り欲しいという気持ちであり、
その典型が食欲や性欲です。
この欲望は人類が生きてゆく上で、最も基本的な心の機能で、
これがなければ人類は滅んでしまいます。
だから欲望は、生まれてから死ぬまで人間には備わっているものです。

一方自我というのは、
「誇る」とか「プライド」などの気持ちの心の機能です。
自我は欲望と異なり、生まれたときにはなく、
成長するにつれて徐々に備わってくるもので、
思春期になってはっきり自覚されるものです。
欲望はなくては生きてゆけれせんが、自我はなくても生きてゆけます。

欲望の中身・強さには個人差はあまりありませんが、
自我の場合は、中身・強さともに個人差がかなりあります。
この個人差が、その人の個性を形作ります。

普通は、人間の心の一番基本的なところに欲望があり、
自我がその上に乗っています。
しかし、自我が強すぎると、欲望と自我の立場が逆転してしまいます。
「命を賭けてもやり通す」というのは、その逆転した状態です。

その最も典型的な形が「自殺」です。
人間には「生きたい」という欲望がありますが、
その欲望よりも「誇り」という自我が上回った結果が自殺です。
欲望より自我の方が強くなると、この自殺のように、
人間行動は時に異常なものになります。


         この記事は2005/10/20に投稿したものに加筆して再投稿しました。

ラムゼイ・ルイス

J. S. Bach: ARIA (Oboe Concerto)

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J. S. Bach: ARIA (Oboe Concerto)  

過去記事の整理

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ヤフーのブログがリニューアルされるとのことで
記事が完全に保存される保証はないと聞きましたので、
保存するに先立ち、過去記事の整理をしました。

まずは、書きかけのまま非公開になっている記事などを削除し、
トップページも作り変えて、そのトップページで検索できる記事も、
哲学関係に限定して、デザインも一新しました。

そこで検索できる記事は、再度読み直しました。
自分で言うのもなんですが、酷い記事ばかりで、
計画性もなく、ただ記事単位で思い付きで書いていましたので、
全体のつながりがなかったり、同じことが繰り返されていたりでした。

ほとんどの記事で、文章の訂正をしたり、リンク間違いも訂正して、
読みやすくしました。稚拙な表現も少しは直しました。
中には全く新しく書き直したものもありました。

中に一つ、どうしても訂正ができない(操作できない)記事があり、
コピーすらできなかったのて、苦労して何とか取り出し、
新しく投稿し直した記事もありました。

ご批判をいただいてたのも御もっともで、
今のは訂正されて読みやすくなってます。
よろしかったら読み直してみてください。

日常から科学へ Ⅱ

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「日常から科学へⅠ」を昨年の九月に書いて
そのままになっていましたが、ご要望??(笑)に応えて
続きを書くことにしました。

これまでに他の記事で何回か書いたことがありますが、
人間の脳についてです。

特に哲学では思索が主にその方法になります。
「思索する本体は脳」ということで、
どうしても哲学の中心に据えられます。

文章を考えるでも脳で考えますので、
脳が世界の中心に来るのは当然と言えば当然ですが、
問題なのは脳は直接は感じられないのです。

外界は感覚器官で感じ取りますが、
心は心で感じます。この「心」というのは脳にあります。
しかし、心は感じられても脳はどうしたら感じられるのでしょう。

心=脳 なのでしょうか。
ある意味でそれは正解ですが、この二つの違いは
心は日常の対象で、脳は科学の対象なのです。

言い方を変えれば「心」は自分の心で、
「脳」は他人の脳なのです。


日常から科学へⅢへつづく、

私のストレス解消法

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毎日、ブログの記事を書いていると、
ストレスが溜まってきます。
私のストレス解消法は同じことをいつまでも続けないことです。

ブログを書いていても、まず時々立って部屋を歩き回ったり、
コーヒーを入れて飲んだり、車でドライブに出たりします。
そのドライブが家内との付き合いのときもあります。

しかし、一番のストレス解消法は、
同じパソコンに向かうでも、違ったことをすることです。
記事を書くでも音楽の記事を書いたり、
ブログではなく小説を書いたり、CDの編集をしたりです。

(このCDの編集が最近上手くできないのです。
パソコンが悪いのか、そのソフトが悪いのか
現在のところ分かりません。)

ずっと、パソコンに向かっていても違ったことをすると、
直前の作業のストレスは半減します。




レッド・ガーランド ホワッツ・ニュー

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レッド・ガーランド ホワッツ・ニュー

なかり以前にアップしたのですが、
YouTubeの原板がなくなったためブログが消えていました。
今日、たまたま見つけて再度アップしました。
ホワッツ・ニューという曲はリンダ・ロンシュタットで知ってはいたのですが、
こんないい曲とは思ってなかったのです。

世界を構成するものの位置づけ Ⅰ

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世界の構造↓で自分と対置する外界を
自然と社会と道具の三つに分けましたが、
この三つは比較的簡単に分けられます。

自然は、山や川や海や野原の自然、そこに生える植物、
その植物を食べる虫、その虫を食べる動物、
噴煙を噴き上げる火山も自然だし、太陽も月も宇宙も自然です。
人間以外のものは自然と言っていいでしょう。

そして人間が作った道具は↓別に分けて、残りが社会です。
しかし、この社会というのはそう簡単ではありません。
人間が作っている社会ですが、人間そのものではないのです。

例えば、「国」これも一つの社会です。
国には領土があり、憲法もあります。
道路があり、鉄道もあり列車も走っています。

いろいろの会社があり、人だけではなく車も出入りします。
郵便も出入りし、電話や電波も出入りします。
まだまだありますが、すべてを挙げることなど不可能でしょう。
一口で表現するなら「文明」という言葉が適切かもしれません。

今挙げた、例えば「領土」、これはまさしく地球上の土地を表すものですが、
自然科学的な意味合いはなく、
人間がその力の及ぶ範囲を宣言したものです。

例えば、鉄道や車や電話などの道具は使っていますが、
道具そのものが問題なのではなく、
それを使って果たそうとする人間の目的の方が問題なのです。
これらは人間の社会的活動の現れなのです。

人間の行動に焦点を当てた「人間行動の位置づけ」↓は先に書きました。
また、「道具の位置づけ」↓も先に書いています。


つづく、

自分のワクで考えない

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あらゆるもののあり方について、
私なりの考えがあって、そのワクで考え判断していました。

それは誰にとっても当然の事とは思いますが、
最近、そういう見方をせずに、
その人の考え方を先に見るようになってきた。

これまでからも「個性の尊重」などと言っては来たが
でもそれは、自分のワクの中のある場所に
その人を入れて考えていたのです。

そうではなく、その人のワクというのがあるはずだと思えてきました。
その人の価値観があり、
その上に築かれたワクと言うのがあるはずです。

もっそと具体的に考えてゆかないと
そんなワクというのを他人の私が作ることができるのか
やってみなければ分からないと思いますが、
価値観の土台みたいなものがあるような気がしています。

分けたものの位置づけ Ⅱ

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世界の構造では、分ける行為の理由付けはしましたが、
その二つを分けた理由についてはほとんど書いてきませんでした。
それぞれの分けたもの同士の違いやその関係については
世界の構造ではそのつながりについては表現されています。

しかし、それでは分けた理由としては不十分ですし、
その後に記事にした各種「位置づけ」との関係も明確ではありません。
それらを補うために書き始めたのがこのシリーズです。

世界の構造↓の「自分」の側は中心に「心」があって、
この心がすべてを束ねているように構築しました。

また「心」については先に「心の構造」↓という記事も書いています。
これは「心」のさらに詳しい分析をしています。

「心」が中心に据えられるということは、心が世界の中心で
その心が哲学の出発点になると思われても不思議ではありません。
過去の哲学の多くはそういう視点で作られています。

しかし、私の世界の構造は、
その構成単位のどれにも優劣はありません。
もともと一つだった世界を分けて、再構成したものだからです。

考えてみてください。この自分の心があるのは、
感覚器官で感じられるものがあってこそあるもので、
それらが全く無くなったときは、もう死の世界です。


分けたものの位置づけⅢへつづく、

エニグマ

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Enigma(エニグマ)はドイツを活動拠点とするヨーロッパ音楽プロジェクトの名前。
アラベスクサンドラ・アン・ラウアー (現・サンドラ・クレトゥ〔Sandra Cretu〕、
マイケル・クレトゥの元妻)を中心に結成された。
民族音楽グレゴリオ聖歌(グレゴリアン・チャント)、カンタータなどの古典音楽と
ダンスビートを緻密なサウンド・プロダクションで融合したサウンドで、
世界的にヒットする。
世界的に大きな影響を及ぼし、模倣とも思われる作品も続出した。
一般的には、後のディープ・フォレストアディエマスのような、
いわゆる「ヒーリング・ミュージック」の先駆者として語られることが多い。

日常から科学へ Ⅲ

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「日常から科学へⅡ」で、「心」も「脳」も同であっても、
「心」は日常の対象で、自分の心であり、
「脳」は科学の対象で、他人の脳であるといいました。

「心」は日常生活で様々な判断をして、
自分自身を形作っています。
自分の個性、自分の「欲しい」の源です。

「脳」は普通の状態では誰も見ることはできませんが、
脳波を受信して間接的に脳を感じることはできますし、
頭骸骨を割って脳みそを見ることは、他人にはできます。

しかし、今「欲しい」と思っている心は見えませんし、
感じることもできないのです。

自分の心の状態と脳波などの受信結果を関連づけて、
心と脳を対応させることで、心の在りかを探り、
「脳」というものを科学的に理解できます。

それを一般人は科学的に脳を理解したと勘違いします。
そして、日常の心とは別に科学の脳が生まれてきます。

今、世間では「心」について語ることを止め、
「脳」について語り始めました。
「脳」が正しくて「心」は間違っていると。

それは違うでしょ。
「心」は心でその在りかがあるはずです。
なんか自分の文章ではないような気がしますが、
今、心に響くドラマを見て戻って来たところなんです。


日常から科学へⅣへつづく、

分けたものの位置づけ Ⅲ

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世界の構造の「自分」の中には、
「心」「感覚器官」「行動器官」「記憶機能」「演算機能」
のほかに「生命維持器官」を分けました。

これは自分を支えている本体であり、重要な存在でありながら、
世界の構造の中では目立たない位置にあります。
しかし、「心」「感覚器官」「行動器官」「記憶機能」「演算機能」は、
この「生命維持器官」に乗って成り立っているものです。

「生命維持器官」は「からだ(体)」ではないかと思われそうですが、
そうではなく自分を分けるとき物理的な見た目で分けたのではなく、
それが持っている機能で分けましたので、
生命維持に携わっている部分だけを指しています。

構造上は「心」と出入りがあるだけで、この「生命維持器官」は
「心」の指示で動き、「心」に危険を知らせる役割です。
少し具体的に考えてみます。

例えば、手が痛い時は「痛み」として、
この場合は「感覚器官」からの情報として「心」に伝わります。
空腹のときなどは「空腹感」という「内臓感覚」として「心」に伝わります。

「心」からの指示が「生命維持器官」に働くときは、
「病は気から」と言いますが、
心理状態が生命維持器官に伝わるような場合です。

このように「心」とのやり取りで「生命維持器官」が動くのとは別に、
「生命維持器官」が独自で無意識のうちに、
生命を維持している器官でもあります。


分けたものの位置づけⅣにつづく、

ワーグナー ジークフリード牧歌

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ワーグナー ジークフリード牧歌

ワーグナーを評して
「朝日と間違えられた夕日」と言った人があるそうですが、
そんな雰囲気の曲ですね。

推測と妄想の違い

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先日、あるブログへコメントしたものを記事にしました。

妄想と推測の違いは中々難しいですね。
分からないことがあるから推測するのですが、
分からないという点では妄想も同じです。
この妄想と推測の違いは、
分からないことが多いか少ないかの違いだと思っています。

今、北朝鮮のことがニュースで報道されることが多いですが、
分かっていることは宇宙から衛星で捉えた地上の変化だったりします。
そこから推測するのですが、
これがそういう宇宙からの情報がなかったらもう妄想になりますね。

推測でも妄想でも、不足している
少ない情報を基に論理的に推測して、
分かっていない空白を埋めて行くのですが、
その空白の埋め方が問題のようです。

デジタル大辞泉によれば妄想とは、
「根拠もなくあれこれと想像すること」とあります。
ここで「根拠もなく」というのは、
おそらく、これも空白の埋め方が問題ではないかと思う。

情報が少ない時は、仮定の話を前提にしたり、
それほど確かでない情報でも、
前提にしなければならないこともあります。
そこから出てくる結論も、時には異常なものです。

想像、空想、幻想、夢想などという言葉も、
場合によっては妄想と区別がつかない言葉です。
問題なのはあり得ない妄想が出てきて、
それが日常生活に支障してきたときです。

相撲の立ち合いについて

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大相撲初場所で栃の心が優勝しました。
平幕力士の優勝は六年ぶりだそうです。

ところで、横綱白鵬の立ち合いでの張り手やカチ上げが
問題視されて、今場所の白鵬の相撲は精彩がなく、
途中休場になりました。

張り手やカチ上げは相撲の手としては違反ではないので
「許すべき」というご意見も聞きます。

相撲の立ち合いというのは
仕切り線を挟んで行司の掛け声で立ち上がり
ぶつかって相撲を始めるものですので、
張り手やカチ上げを立ち合いでも許すと、
相手の力士は目などへの防御態勢を取り、出遅れて不利になります。

その不利にならないためには、
最初にぶつかって立つさいうのはやりにくくなり、
レスリングや柔道のような立ち合いになってしまいます。
それでは相撲らしくなくなってしまいます。

立ち合いの時だけは使ってはいけない手を決めて置けば、
問題はなくなると思いますね。
「横綱の品位」なんて理由付けがされたりしていますが、
あれはちょっと理解できないですね。

分けたものの位置づけ Ⅳ

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世界の構造の「自分」の中の
「感覚器官」と「行動器官」の位置づけです。

この感覚器官と行動器官は
はっきり区別できそうでそうでもないのです。
先にも言ってます通り、
物理的な身体の位置で分けたのではなく機能で分けているので、
見た目では分けられないものです。

見ると言う行為は感覚器官としての働きのように思えますが、
例えば、橋脚の強度を検査するとき、確かに橋脚を目で見ます。
しかし、同時に強度があるかどうかも診ています。

ハンマーでコンクリートをたたいて音を聞きますが、
これも同時に強度があるかどうかを診ています。

例えば、マラソンで走っているときでも、
単に走るという行動をしているだけではなく、
足で地面を蹴っているときの皮膚感覚も
風を切って走るときの皮膚感覚もあります。

感覚器官と行動器官の働きをはっきり分けるというのは難しく、
むしろ、行動しながら感覚器官で感じているというのが実際です。


このあたりの仕組みについては、医学や心理学や脳科学などで
徐々に解明されつつあり、それに期待したいですが、
あくまでも、ここが出発点で、
日常の生活はこのレベルで行っているのです。



分けたものの位置づけ垢悗弔鼎、

インフルエンザと熱

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子供のころは体温のコントロールができないので
熱がよく高くなるといわれます。
大人になると確かに高熱を出すことはなくなりました。

しかし、これも個人的に差があるようで、
熱の出やすい体質の人そうでない人といろいろのようです。
私などは大人になってからは38度以上の高熱は出たことはありません。

一方で熱が出るということは、体がウィルスと戦っている証拠で
それは抑える必要はないとも言います。
高齢者の場合は免疫力が落ちているため
熱が出ていなくても、安心はできないとも言われます。

一体どれを信じたらいいのかと思ってしまいます。
私は高齢者なんです。

もう一つ付け加えるとしたら、
最近家族がインフルエンザインフルエンザとうるさいので、
病院に行ったら、体温を測定されて37度いくらかの熱があるのです。

これまではこのくらいのことで病院に行くなんてことはなく、
微熱があるという自覚もなかったようです。
ますます分からなくなってきましたね。(笑い)
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