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Channel: 凡人のたわごと
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お墓は生きている者のためにある

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お盆なので、お墓の話でもしましょう。
ちなみに我が家にはお墓がないのですが、
お墓のあるお宅ではこの時期は墓参りのときですね。

お墓の前でどんなことをお参りなさるのでしょうね。
亡くなった方との対話でしょうか。
一年間の出来事のご報告でしようか。

私はしたことがないので分りませんが、
死んだ方の前では言葉が浮かんで来ないのです。
浮かんでくるのは命のはかなさででしょうか。
私の場合は、むしろそこから遠ざかりたい気持ちの方が強いかもしれません。


私は、お墓は生きている者のためにあると思っています。
生きている者が死を恐れ、死んだ人に「安らかに」と願っている、
生きている者の気持ちの表れでしょうね。

死んだ人は死ぬことですでに安らかなんです。
むしろ、生きている我らを案じていることでしょう。

同じようなものが、生きている者の世界には沢山あります。
いつも素晴らしい記事を書いてくださっている無言石さんが、
「天国も生きている人のためのもの」と仰いました。
そうだと思います。

皆さん、お墓参りは済まされましたか。

自分に正直

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このテーマについて何度も記事にしていますが、
いまだに「自分に正直」神話がまかり通っています。
自分の感性を大切にし、感じるままに「自分に正直」に生きる、
それが理想の生き方である、という訳です。

確かに、自分を押さえて他人の顔色をみている人もいます。
そこまでしなくてもと思える人や、かえってこちらが気を使ってしまう人もあります。
それはそういう人の悪い面ですが、悪い面だけではないのです。

自分が苦労して作ったものを他人が喜んでくれることが嬉しい、なんてことありませんか。
「苦労」は「自分を抑えること」ではないのです。
他人に喜んでもらうことが嬉しくてしているのです。

その人にとってはそれが自分の生甲斐なんです。
この人も「自分に正直」ですよね。
人が喜んでくれることが嬉しいから、人に合わせるのです。


「自分に正直」神話を信じている人の悪いところは、
自分(人間)には色んな状態のときがあるということが分かってないことです。
「殴ってやりたい」と思うこともあれば、状況によっては「殺してやりたい」と思うこともあります。

自分に正直であろうとすると、
殺してやりたいほど憎いやつがいたら「殺すべし」という結論になるでしょうね。
実際にそう思っている人は、思うより多いと感じています。

「自分に正直」神話を信じていても、この世界の中に生きているのです。
自分の主張を通したいのもこの世界ででしょ。
だったら、この世の中を構成している他人と協調できなければ生き辛いですね。
それこそ仙人のように山奥で一人で生活するしかないですね。

「自分に正直」は絶対によいとは限らないことを知ってほしいですね。

「時間」の正体 (私の哲学 Ⅸ)

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自分は何者か、この世界は何なのか、という哲学的疑問に答えるために、
その疑問はどこから来たものか、その原因は何かについて、
[http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/62665415.html '''哲学的疑問の起源''']で述べました。

そこでは疑問の原因は「力」と「時間」を獲得したことにあると言いましたが、
そこで、特に「時間」について、もう少し分析してみたいのです。


「力」が働くためには「時間」の経過が必要ですが、
何のために「力」が働くかと言えば、自分の欲望を満たすためなんですね。
「欲望」つまり「[http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/62623846.html '''心''']」という記事でH嵬椶傍鵑欧燭發里任后

「時間」という実態はない([http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/19194848.html '''時間について''']参照)のですが、
欲望を実現するための道具として出来上がったもので、心の中には「時間」はあるのです。
つまり、欲望を手助けしているものが「時間」の正体なんです。

これまでに〇柁獣猫価値判断は述べてきましたが、
この´△糧獣任皚つまり欲望を通過して、自分の欲望に照らしてから行動に移ります。
そして行動することによって、外界からの情報が得られて世界が回る([http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/62601671.html '''世界は回っている''']参照)のです。


例えば、核分裂のときに巨大なエネルギーが出る、という事実判断を、
この巨大なエネルギーを爆弾として使えば、戦争に勝って領土を増やせる、
この巨大なエネルギーを使って発電すれば、安く電気が造れる、
こんな巨大なエネルギーはコントロールが困難で使うべきでない、とか、
いろいろ自分の欲望に照らして、発電に使ったり、原爆に使ったり、使わなかったり、
つまり、どれが得か判断して次の行動に移ります。

「欲望ではなく理性で判断することもある」と仰る方もあると思いますが、
[http://blogs.yahoo.co.jp/bonjinpapa/9620262.html '''理性という心はない''']という記事でも述べていますが、理性という心はないのです。
例えば、原子力のような巨大なエネルギーはコントロールが困難、という判断でも、
コントロールできなくなって自分にも危害が及ぶという損得勘定が働いています。

まだ、「私の哲学」は続きます。
多分、次が最後の稿になると思います。

絶対的世界を求めて (私の哲学 Ⅹ)

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死なないために食欲があり、滅びないために性欲があるのですから、
欲があるから生きてられるし、人類は滅びずにいられのです。

欲を悪として、禁欲生活をしようとする人や、
欲に根ざした文明を拒否しようとする人がありますが、
そんなことをしても無駄です。生きるためには欲は必要なんです。
そのような体に創られて与えられているのです。

ただ言えることは、私たちは対象を見るとき、
いつもこの欲を通して見ているということです。
よく言われますが欲で捻じ曲げられた世界をみているのです。
たったら、欲を通さないで見たらどう見えるか知りたくなりませんか。

欲を完全に取り去るためには死ぬしかありませんが、
一時的に取るとか少しだけ取るというのはできます。
そのようにして世界を見てみると、これまでとは違って見えてきます。


欲を通さない世界、結論を書きます。
欲を通した世界は相対的世界ですが、通さない世界は絶対的世界です。
相対的世界は例えば、「善」があるから「悪」があるというような、
すべてのものは相対的に存在しているというそんな世界です。
絶対的世界は、「善」とか「悪」というものがない世界です。
「生」も「死」もないし、「好き」も「嫌い」もないのです。

私もよく、事柄を欲抜きに見ようとしてみます。
今、苦しんでいることも、欲がなかったら何の変哲もない事柄だったりします。
こういう経験を重ねることで、徐々に欲を通さない世界を知ることができます。
いったん、この世界の心地よさを体験すると、この気楽さ加減はやめられなくなりますね。

あれが欲しいこれが欲しいと思っていると、その希望が叶わないとイライラしますが、
「欲しい」と思ってないと与えられた時は嬉しいものです。
与えられるままに生きる気楽さ、これは味わってみる価値はあると思います。
これが欲を通さないものの見方になります。


こういう世界の捉え方は、宗教特に仏教の捉え方になりますが、
宗教のように人間を「悪いもの」「罪深いもの」という捉え方を私はしたくないのです。
確かに人間は欲深い者ですが、そのように創って与えられているのですから、
そんなにそれを悪くいうのはどうかと思います。

そんなに人間が悪いものではない証拠というわけではありませんが、
人間は社会を作って助け合って生活しています。
自分を犠牲にしてでも他人を助けることもあります。

これが私の哲学です。    完。

「高い」「低い」ではなく比較をしてほしい

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震災による原発事故の後、
毎日のように放射線量の話がテレビなどで報道されています。

「高い放射線」とか、「低い値」とか、
そういう表現をよく耳にしますが、「高い」とか「低い」とかいう言葉は
何か比較するものが必要な言葉で、それがないと正確には理解できないですね。
それがないとやたらと不安をあおり、風評被害を助長するだけになると思います。

比較の言葉が出てくることもありますが、
しかし、その比較する値というのも幾つもあって、
その時々で適当に使い分けられていますね。

ー然界に存在する放射線との比較、
⊆N鼎筝〆困濃箸錣譴詈誉箸糧羈咫
J誉魄靴Δ發里鵬櫃擦蕕譴刃海蕕靴討呂い韻覆っ佑箸糧羈咫
な誉奮阿隆躙永質などと発がん率を比較、
などいろいろあると思いますが、私はい糧羈咾最も分り易いと思います。

例えば、タバコの受動喫煙も発がん性が言われていますが、
この受動喫煙などは日常生活でも普通に経験することで、
どの程度、それを避けようとしているか、
つまり、どの程度危険と感じているかがわかります。

それらと比較することで、
その放射線量がどの程度危険なものかが実感できると思います。
ぜひ、比較するものを分り易いものに統一して、報道してほしいものです。

風評被害の方が大きい?

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原発に賛成しようと反対しようと、
現実に放射線が人に与える影響は変わりがありません。
しかし、風評被害だけは余分に被害をこうむります。

不安をあおるだけの発言は避けるべきです。
どの程度体に悪いのか、根拠とともに示すべきです。

放射線による被害より、
風評被害を避けるために被害が大きくなったりしてませんか。

私の哲学 おまけ

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与えられるままに感謝しながら生きる、
これが宗教者の生き方かもしれません。
私は先の「私の哲学」で、これが私の哲学ですとも言いました。

しかし、社会生活をするときは、
「与えられるまま」では成り立たないこともあります。
特に会社勤めの場合は、命令だけに従っていたのでは仕事ができないことが多いですし、
その命令自体が欲望に基づくものであれば意味がありません。

私は思うのですが、宗教的な考え方(つまり欲望を抑える)は、
社会生活とは矛盾するものだと思っています。
社会の進む方向は全体として欲望をより満たすための方向だからです。
人間は生きるためには欲望を満たさなければならないのです。


考えてみれば、与えられているのは自分の外からだけではないのです。
自分の内すなわち自分自身も与えられています。
自分の体も性格(個性)もすべて与えられて今ここにあるのです。

みんな欲を持って生まれていますが、その欲の現れ方は人それぞれです。
個性の違いで現れ方も違います。

人間は社会を形成して助け合って生活しています。
社会の中に自分の役割というのがあるはずです。
自分の個性に合った居場所があるはずです。
それを探して生きるのが最適の生き方ではないでしょうか。


たくさんの「生き方」を記した書物が出ています。
それらはその著者の個性での生き方です。
どれが良いというのではなく、どれが自分に合っているかです。

欲は捨てることはできませんが、最低でも社会の秩序を乱さないように、
法律が許す範囲で個性を生かして生きて行きたいものです。

ものぐさな人

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関西では「ものぐさ」という言葉は使わないですが、
「ずぼら」とか「邪魔くさがり」なんて言います。
傍から見ると「もう少し何とかならない」と思えるような、ものぐさな人がいますね。
かく言う私がそうなんです。

とりあえず、やらなくてもよいことはやらない主義です。
「やらなくてもよい」という判断は客観的に見てというのではなく、
自分がやらなくてもよい(やりたくない)と思ったものです。


私が高校時代のとき、友達が家に遊びにきたのですが、
その友達が私の母親に「○○君はずぼらですね」と強調して言うものですから、
母親が「そんなにうちの子ずぼらですか」と怪訝そうに問い返していたくらいです。

仕事の報告書でも必要なこと以外は書かないものですから、
簡単な報告書になって「もう少し○○○位は書いとけよ」なんて言われたりで、
とりあえず、私の仕事の評価は良くなかったように思います。


まあ、他人に不愉快な気持ちを与えなければ、それでもいいのですが、
しなければならないことまで省いてしまって、
相手には不愉快な気分にさせて、自分も誤解されて損をする、なんてことがしばしば。

今から思うと「あのとき一言断りをいれておいたらな」と思うようなことが沢山あります。
断りを入れずに行動だけをするものですから、相手にとっては「なんだ?」となるのですね。
私はこれでどれだけ誤解されてきたか分りません。
私が「変人」と言われる所以です。


いまさらこの性格を変えようとは思いませんが、
年とともに、だんだんクセは取れてくるものですね

個人と社会

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子供のころは、よく大人の人から「何になりたい」なんて尋ねられたものです。
親からも聞かれるし、学校の先生もそんな質問をしますね。
そして答えるのが男の子なら「野球の選手」とか「電車の運転手」とか、
もう少し年齢が高くなると「医師」とか「消防士」とか答えます。

すべて自分の好きなことか、世間からカッコよく思われるものです。
そしてその好きなことやカッコいいことを自分が直接する仕事ですね。

しかし、世の中にそんなに直接かかわれるカッコいい仕事があるわけではありません。
たいていは会社として、あるいは社会として一つのことをすることが多いです。
つまり、分業することによって効率よく仕事をする仕組みになっているのですね。

直接でなくても間接的にその仕事を助けることも必要です。
そういう助けがあってこそその仕事が成り立っているのですから、
直接であることにそれほどこだわる必要はないようです。


人の個性は、直接かかわる仕事の内容にも一致不一致がありますが、
間接的仕事にも個性の一致不一致があります。
事務の仕事、営業の仕事、運搬の仕事、研究の仕事、その他いろいろ。
こうした分業社会でも、自分の個性に合った職種を選ぶことは可能です。

それから偉人の伝記などで、その偉人の業績が称えられていますが、
その業績の影には多くのそれを助けた人があるものです。
偉人は社会の代表であって、その業績は社会のものです。

個人の名声を得るためではなく、社会として成し遂げるという考え方が必要です。
教育もそういう方向に向かわないと、
個人(個性)と社会のミスマッチを無くすことはできないでしょう。

就活のときにどこを選んでよいか分からないとか、
仕事はお金のためだけ、なんて考え方も少しはなくなるのではないでしょうか

ボケてきました

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もうかなり前から記憶力が落ちてきていますが、
最近の状態は酷いものです。

ボケと記憶力の低下はイコールではありませんが、
記憶力の低下とともにボケの症状も進んで来るようで、
ボケの程度を記憶力で測ったりしますね。

これまでは人や物の名前が思い出せない、というような症状でしたが、
今は今朝食事をしたか大便をしたかが思い出せないことがしばしばです。
まあ、食事をしてなければ腹も減るでしょうし、
大便をしてなければ自然に便意をもよおすだろうと思ってはいるのですがね。

食事をしたか大便をしたかなんてことは、それほど重要なことではないので、
記憶してなくても大したことではないし、
そもそも記憶する意志がないので、覚えてなくてもいいのですが、
覚えてなくてはならないことや、覚えているはずのことが、
忘れているというのはショックなことです。

例えば、私は発売される洋楽CDの曲を聴いて、
気に入った曲を集めてベスト曲集を作って聴いていますが、
2~3年前に作ったベスト曲集を聴くと知らない曲が入っているのです。

ベスト曲集を作るときは何回も聴きながら、
気に入らない曲を除いて行って残った曲で作っていますので、
忘れるわけがないのですが、思い出せないのです。

というわけで、私はボケてきていることは間違いないようですが、
しかし、不思議なことにその知らない曲を聴いていると、
「この曲聴いたことがある」と思えてきて、
さらに聴いてゆくと「この曲よく知っている曲だ」と気づくのです。

記憶力が落ちる(忘れる)ということは、記憶が消えるのではなく、
脳の隅のどこかには残っているのですね。
となれば、絶えずこの脳の隅の記憶を刺激しているとボケないということですね。

そんな訳で休止状態のブログを再開しましたが、
どうも乗り気になれないというか、面白くないのですね。
これもボケの症状の一つでしょうか。

私のイジメ対策

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相手がイジメているつもりでも、全く感じてないときもあるようですが、
それがイジメと分かっても、取るに足らないことは相手にはしません。
自分に被害の及ぶときだけ、はっきり抗議の意志を示します。
もちろん、相手が分かっていればの話ですが。

抗議の意志の示し方はいろいろありますが、
もう付き合わないというのも一つの方法です。
その被害が大きいときは、その被害を言ってキツク抗議します。
私のことですから、かなり強く言います。

時にはケンカもします。
もちろん、相手は弁解もしますが、その弁解が納得できなければ、
納得するまで追及します。

要するに、それがイジメかどうかはどうでもよくて、
身に降る火の粉を払っているだけです。

間違っても「それイジメか」なんて聞くことはありません。
そう聞かれて「イジメや」なんて答える相手はいませんからね。
余計悪くなるのが関の山です。


「凡人さん、そのお歳でもイジメがありますか」と、
どなたかの質問が聞こえましたが、それがあるのですね。
私は毎日カミさんからイジメられてます。(笑)

最悪のイジメ

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イジメられる子供は心が弱い(優しい)子供で、
その弱さをつけ込まれてイジメられるのですが、
もともとは心は弱くなかったが、
ある切っ掛けで心に傷が付いた人をイジメるのは最悪のイジメですね。
つまり、その傷ついた心を捻くりまわし、遊びものにするわけですからね。

普通ならしばらくすればその傷はすぐに治るのですが、
ひねくり回されるためにいつまでも治らないのです。
社会生活では普通なら起きないようなことが繰り返し起きたりしたとき、
直接聞くわけにもいかず、またそんな関係でもなかったりして、
推測するしかないのですが、心に傷があると普通の推測にはならないのです。
すべて、心に傷ついたときの経験と結びついてしまいます。

この状態が続くと、誰しも人間不信に陥るか、
悪くすると自ら命を絶つ結果になります。

このイジメはなんの罪にもならないのでしょうか。
傷ついたのが心ですから分かりにくいですが、
例えば足の傷だったとします。
静かにしていれば治るものを、傷口をいじくり回されたら治るものも治りませんね。
これは立派な傷害罪ですね。

最悪のイジメ、今、こんなことを考えています。
ちょっと不健康ですね。(笑)

語っているあなた、誰?

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ちょっと前になりますが、80才になられる広島の被爆者の方が、
原爆の悲惨さを伝えるためにアメリカに講演に行かれた、というテレビの放送を見ました。
講演を聞いた人の反応も、原爆の悲惨さが分かった、というようなものでした。
講演者がどうして今まで生き延びられたかと疑問を挟む人はありませんでした。

もちろん私も、原爆の悲惨さは知っているし、
原爆なんて世界から無くなればいいと思っていますが、
何かこの話を聞いてすんなり受け止められなかったのです。

今、福島の原発事故による放射能汚染が問題になっていますが、
放射能は怖いものという結論で日本国中が動いているように思います。
確かに原爆は悲惨な結果を招きます。
しかし、放射能はその量によっては全く問題がないのです。
現に原爆の被爆者が80才になってもなお生きておられるのですからね。

原爆は悲惨ですが、条件によっては80才以上も生きられるのですね。
この「条件によっては」という言葉を飛ばして考えるから「悲惨」だけが残るのですね。


現代の社会には様々な情報があふれていますが、
それらの情報の発信者が誰か、その情報のどの位置いる人かは非常に大事なことです。
話を聞いていて「その話、なぜ知っているの?」「あなた、なぜそこにいるの?」
「あなた、なぜまだ生きているの?」なんて思うことありますよね。

その情報と発信者の関係は注意して聞きたいものですね。

新年のご挨拶

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今頃、新年のご挨拶とは遅いご挨拶ですが、
実は私は一月四日に年越しソバを食べましたので(笑)
五日からが私の新年なんです。(屁理屈)

自分を振り返って思うのですが、世の中というのは面白いものですね。
「世の中」というより「人間」と言った方がいいかもしれませんが、
いろいろのことが起きて泣いたり笑ったり怒ったり、
見ていると飽きることがありませんね。

自分自身を突き放して、客観的に眺めてみると、
なんとも傑作な男ですね。カッコ付けでドジで、しかし愛すべき人間です。
世の中にもいろいろの人がいて、それぞれの個性で生きていますが、
そのそれぞれも愛すべき人間ですね。

そしてそれらをすべて神はお見通しで許されています。


こういう話をすると、うちのカミさんは「お父さんはノンキでええわなぁ」といいますが、
そんなこと言ってないで、自分もノンキになればいいのですがね。

そんな訳で相変わりませず、本年もよろしくお付き合いください。
新年のご挨拶はこれでおしまいです。

どんな状況でも夢は持ちたいもの

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先日、京都市の長寿福祉課から「介護予防サービスのご案内」という冊子が届きました。
この介護予防サービスというのは「いつまでも住み慣れた地域で、
自分らしくいきいきとした暮らしを続けるために、
病気の予防と同じように「介護の予防」に取り組むこと」だそうです。

身体の機能の衰えを防ぐためのプログラムがあって、
それに参加しようというご案内なのですが、
こんな冊子が届くと「自分は老人なのだ」と宣告されたような気がします。
衰えを防ぐためだけのプログラムなんてする気がしませんね。

人間は夢を見て生きています。
年をとればその分夢は小さくなりますが、やっぱり夢は持っています。
体が不自由でもできることはあるもので、
そのできることで夢が持てますね。

夢に向かって生きておれば、自然に体も心も鍛えられます。
そして何より楽しいものです。
どんなに小さなものでも、夢を持って生きておれば、
体も心も「老人」になることはないのではないでしょうか。

年を取ってからの夢、いろいろあると思いますが、
衰えを防ぐためだけの無機質なプログラムではなくて、
例えば、絵を描くとか、写真の個展を開くとか、本を出版するとか、
それをするために体も心も使って鍛えられます。

そうは思われませんか。

理屈で考える欠点

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私もカミさんも園芸が趣味ですが、持分が決まっていて、
私は玄関(表)まわりでカミさんは裏の庭まわりの担当です。

園芸店に行った時の話ですが、
カミさんが「表の花壇にこのナデシコ買ったら」というので、
そのナデシコを買ったのですが、いつまでも植えずに放置していたところ、
「私が「植えて」って言ってるのに植えてくれない」というのです。

そこで私が「「植えて」なんて聞いてないよ」というと、
「植えて」って言ったというのです。
いつもこの種の言った言わないで喧嘩になるのです。


私は理屈で考える性質で、
カミさんの言葉からは「言った」ということは論理的に出てこない(ちょっと大げさか)ので
納得はできないのですが、カミさんにしてみれば、
言葉から「私が植えてほしい」と思っていることが分かる、と思っているのでしょう。
論理的にどうかではなく、気持ちがどうかが問題なのでしょうね。

理屈で考える人の欠点は、人の心を読む能力が低いのでしょうね。
そんな気がしました。

感情で考える欠点

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先に「理屈で考える欠点」という記事で、言葉の行き違いで喧嘩になると書きましたが、
まったく逆のケースでもよく喧嘩になります。
つまり、先の「理屈で考える欠点」ではカミさんの言葉を私がどう受け取るかでしたが、
今回は私が言った言葉をカミさんがどう受け取るかなんです。
カミさんは感情で考える典型的な人なんです。

カミさんが遅くまでブログをしているのを見て私が「早く寝ろよ」と言ったとします。
私は、寝るのが遅くなって翌朝の食事の仕度が遅れて、
こちらにとばっちりが来るのではと心配して言ったのですが、
カミさんは、遅くまで石油ストーブを点けてモッタイナイと言われたと受け取ったりします。
当然のことながら、またここでも喧嘩になるのです。

この例の場合なら、まだあり得る話で、
私もモッタイナイと思っていることもあるでしょうげど、
まったく予想もしない考えてもいないことを受け取られたりするのです。
まあ、こうなるとあきれてしまって喧嘩にもなりませんがね。
ときには、顔つきを見て判断されたりするのですからね。あきれます。



前の記事でも今回の記事でも言葉の行き違いで喧嘩になっているのですが、
前のは言葉以上の意味を読み取らなかったための喧嘩で、
今回のは言葉以上に読み取ったための喧嘩です。

感情で考える人の欠点は、相手の気持ちを考え過ぎることでしょうか。
あるいは、相手の考えを自分の考えで補ってしまって、
結果、間違った判断をしてしまっていることでしょうね。

リーダーは一人でいい

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実はこの記事のタイトルを最初は「世の中には凡人も必要」としようと思っていました。
「凡人」に限らず、「教授」も「技術者」もその他いろいろの人が必要なのですが、
みんなリーダーになりたがって、言いたいことを言っているものですから、
なかなか物事が決まらない、という姿が今の政治です。

とこかの政党のようにリーダーが二人いたりすると、まとまりようがありませんね。
議論するのはいいとしても、最終的にリーダーが決めたことに従わなければ、
もう、一緒にいる理由はないでしょう。
リーダーは一人でいいのです。

物事を前に進めるためには、多少の考え方の違いがあっても、
リーダーの決めたことに従わなければできません。
そうなんです。凡人のように大勢に従う人が必要なんですね。

自分の意見を持つのは必要ですが、
社会としてどう進むかというときには、自分の意見が通るとは限らないのです。
大勢の人間がいるわけですから、考え方もそれだけ沢山あります。
その沢山の意見をすべて聞き入れることは不可能です。

だからリーダーがいて、最終的にはその判断に従って前に進むのです。
リーダーは一人でいいのです。
二人のリーダーがいたら二つの方向に分かれてしまいます。

今、日本の国はどちらを向いているのか分かりません。
あちらに気を使いこちらに気を使って中途半端な政策しかできないのです。
リーダーとしての素質もさることながら、
それを支える国民のバックアップがないのは弱さを助長していますね。

日本の国には沢山のリーダーがいますが、
それらをまとめるにはもっと強力なリーダーが必要です。
中途半端なことしかできないのなら、
多少、自分の考えとは異なっていても、強力なリーダーを選びたいですね。

ゆるしておやり

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もう数カ月前になりますが、
京都市右京区京北にある道の駅で、北山杉で作った置物を買ってきました。
「ゆるしておやり」と文の入った修行僧?らしき絵の書かれた置き物です。
 
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時々他人の行為にイライラしたりするので、自分に言い聞かせるつもりで買ったのですが、
他人を許すより、自分を許してもらうことの方が多いです。
 
心のやり場に困ったときは、この置物に詫びることにしているのですが、
こうすると、非常に気持ちが楽なんです。
まあ、悪く言えば何でもそれで許されるという甘い考えになるのですが、
そこは神様ではなく人間ですので、いいのではと思っています。
お叱りを受けそうですね。
 

目からウロコの話

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先日、娘と話をしていて何の話からか源氏物語の話になり私が「源平合戦の源氏だよ」言ったところ、
娘が「源氏物語と源平合戦は関係ないよ。
時代も違うし源氏物語はラブストーリーのフィクションで合戦の話ではない」というのです。
 
もちろん私も源氏物語はラブストーリーで合戦の話ではないことは知っていましたが、
源平合戦の時代の源氏の話で実話を元に作られたものと思っていました。
というか、もともと歴史に疎く文学の苦手な私には、そもそも源氏物語なんて興味のない対象でしたから、
詳しく知ろうという気もなく「そんなもの」くらいにしか考えてなかったのです。
 
とりあえず、ネットで調べてみることにしましたが、結果は娘の言う通りでした。
調べてみて分かったことですが、私と同じような勘違いをしている人がかなりあるということです。
この結果を娘に報告したところ「死ぬまでに分かってよかったなぁ」と言われました。
とほほ。目からウロコが落ちました。
 
 
人間というのは神様ではないので間違いや勘違いはよくするものです。
他人の間違いには気づいても自分の間違いには気づかないものですね。
聖書の言葉にこういうのがあります。
正確な言葉は分かりませんが、
「自分の目にハリがあるのに、あなたのハリを取らせてくださいなどと言えますか」というものです。
他人の間違いを指摘するより自分の間違いを探すほうが大切と痛感しました。
 
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